第5回 豊島ミホさんに聞く

<小説家>

今回の「先輩」はコーナー始まって以来初の20代。しかも小説家ということで、これまでとは少し違ったスタンスでのインタビューになりました。 自らを「底辺の女子高生」(文中に説明あり)だったと語る割には、明るくて気さくなんです!

  お話は、小説家・豊島ミホ誕生にまつわる内容から、自身の高校・大学時代の話、最近の横手高校についてや今後の野望などをお聞きしました。

 

■ 豊島ミホ、デビューのわけ。
 

 

―豊島さんと言えば、新潮社による「女による女のための「R-18」文学賞」読者賞を受賞しての文学界デビューと存じますが、まずはそのあたりのいきさつを…。

  実は私、大学1年に賞を頂いているので、デビューしてからもう3年になるんです。1年の夏に書いたのを出して、3月に授賞式。最初の単行本が出たのがその半年後です。

―え?そうなんですか。ではだいぶ前から小説は書かれていた?

  小説というより…。実は漫画家志望だったんです、というかついこの前まで(笑)。 今まで漫画の賞に出していたんですが、ダメで。ストーリーがダメなのか、絵がダメなのかわからなかった。それで、小説を書いてみたらわかるかなって思ったのがきっかけ。小説もダメなら考えるが、それがよけりゃ絵がダメなだけだからなんとかなるかなって。それで出したのがあの賞で。そしたら受賞しちゃったという…(笑)

―文章いきなり書こうと思って書けるものではないんじゃ…(笑)前から書いていたのでは?

  昔から日記は書いていたんで。でも、いま見ると恥ずかしい内容やら、どうでもいい内容やら・・・。

―ではマンガはいつから描いていらっしゃった?

  5才から。20歳では15年も描いていた事になるんですね。(マンガが)ダメだったのはやっぱり絵がダメだったかららしいです。

―進まれた大学はどうして選ばれのですか?

  早稲田の文学部は授業に創作実習があるので、大体はそれを目指して入ってくるんです。私の場合は最初はただ古典の文学研究がしたくて文学部入っただけ。
  ウチの学部はおそらく日本で一番科目選択数が多いんです。それと、必修科目が1個も無い。自分だけの時間割が作れるカリキュラムで。(注:このカリキュラムは06年度から変更になっています。現役高校生は注意!) だから、雑学があればマンガのネタになるだろうと思ってました(笑) 夜間部だったので昼間はマンガが書ける、そうすれば在学中にはマンガ家デビュー出来るかなって思ってました。ネタを仕入れるために入ったと言った方が正しいようですね。

■ 高校時代 ~檸檬のころ~


―豊島さんの書かれた「檸檬のころ」というのは、自分の体験談が元になってるんですか?

  あれは自分よりはだいぶマシにしています。自分よりもっと上の人たちを見ているんです。地味でも「地味のジミ」と「普通のジミ」があるんです。(「えっ」?っと編が質問。)
 世間では女子高生というと援助交際したり派手な格好したりというイメージがあるが、横手高校にはないでしょ?横手高校に存在する派手な人というのは、教室で髪をとかしたりクラスで目立って話をしている人。で、それより下の人が地味な人。彼氏がいなくて普通です、みたいな。
 あと、私はほとんどイジメられっ子だったようなものでした。朝行っても「おはよう」って言える人がいなかった。クラスで四人しか口をきいてくれる人がいなかったな…。このポジションが「地味のジミ」で、私は「底辺」と勝手に命名してます。今でも、同じクラスだった人とはこんなふうにペラペラ喋れないと思う。

―(編:談)クラスが和気あいあいとしているということは僕の頃から既になかった感がありましたね…。

 横手高校の生徒の特徴は、他人に興味がない、よく言えばクール。それと生徒のプライドが高い、というのはありますね。一応いろんな中学から「勉強」の成績の良い人が集まって来ているし。自分だけで精一杯、とか、気さくに人に話し掛けられない、という状態なのではと分析していますが。

―「檸檬のころ」には保健室がよく出ていましたが、豊島さんは保健室登校をしたことがおあり・・・?

  1週間35コマの内、授業は10コマ、残りは保健室でした。(笑) だから2年生の時は春休みも補習を毎日6時間目まで受けて何とか進級させてもらいました。3年生になってもそうで、卒業前の2~3月も補習。みんなが卒業式の時、私は式に出ていなかった。後で校長室にて一人卒業式をやってもらいました。

 もう一つエピソードがあって、その時は「そんな遅くに卒業するやつに卒業見込なんてやれない」と言われていたので、大学の受験資格がなかったんです。浪人したのはその時に受験できなかったからなんです。だから1年間モラトリアムをさせていただきました。

―高校時代で楽しかった事は・・・

 保健室、下宿、美術部が楽しかった。美術部は絵がかけたからというよりは、メンツが。課外活動は皆勤賞でした(笑)

■ 何のためのシュウカツ?

 

―話は戻りますが、賞をとって、心境の変化は?

 「とりあえず賞金がもらえるからラッキーって。自分としてはそこでストップして良かった。でも「次やってみない?(本にしてみない?)」って会社の人に言われて、つい「はいっ!」って言っちゃって(笑)。それで、書き足したんです。でも・・・実際に世に1冊目を出したときの反響は、最悪でした。当時の自分としては頑張ったんですが、今見ると火が出るほど下手くそな文章で。ある有名な書評雑誌のwebサイトがあるんですが、書評家5人のうち3人が5段階評価で「1」。正直ショックでしたよ。
 その後、小説を書くからには売れるものを書きたいと思いました。全国に届くためにはその書評家の壁を乗り越える必要があるんです。書評によって都内の書店でさばけると、地方にも回るようになるんです。だからその人たちに認められる文章を書けないとダメだと思って頑張ってみたんです。2冊目の話も来て書いたが、それもあまりふるわず、もうやめてやる!と何度も思った。新人社員と同じかな?入社1~2年はしんどいって皆言いますよね?そう思わなくなったのは3年目、「檸檬のころ」が出た辺りでした。 

―書くのをやめて普通の仕事をしようと思ったことはありますか?

 大学3年になった時、書くのを休んで就活を始めました。自分はちゃんとした企業に入るんだ、という妄想に侵されてて・・・(笑)

―いい企業というのは?

 「NHKとか(笑)。何かを発信する側に回りたかった。もしくは教育関係とか。予備校では楽しく勉強できたこともあって。小説については「いい加減なことをして金を稼ぎやがって」って目で友達からは見られてたんで。だから、私がNHKに入ったとなればようやく「おお!」と見てくれるだろうと思っていた。でも一次試験で落ちてしまってたんです。後々、あるきっかけがあって自分が皆に「わぁスゴイ!」って言われたかっただけだったと気付いた。大学4年の春頃でした。」

―その、きっかけというのは?

 「その頃オウムの麻原の裁判があったんです。オウムの幹部たちは、なんで東大まで出てこんなことをしてしまったんだろうということで、テレビのコメンテーターや識者は解らないと言っていたけど、私にはちょっとわかる気がしました。子分たちは「大義名分」が欲しかった。自分は何かのために生きているという明確なものが欲しくて。オウムは日本を新しくするぞ!お前等もやるんだという掛け声のもと、明確な答えを出そうと行動が成された。勉強したけど何やっていいかわかんなかった状態で引き込まれちゃった。「大義名分」が彼らをそうさせたんだなって。それを見ていたら、自分の就活に似てるかもって思った。誰かに「よくやったね」と言われるためにやってたことじゃないかなって。企業に入るための面接での自己PRも、ちゃんとやりたい人にとっては正当な「PR」だったんだろうけど、自分にはただの大義名分語りだったなと。」

―その頃の豊島さんにとっての大義名分は、ステータスをとろうとしたこと?

 「ちゃんと就活して、就職したという大義名分が欲しいだけだったと気付いて、じゃあ就職活動をやめようと思った。とりあえず手元にあるものを見直し始めた。そこで初めて、作家として生きてくことを考え始めたんです。」

―そう決めたときまず何をやろうとした? それと後悔はありませんか?

 もう目の前にあるものをやるだけ。(つまり、書く!)。 後悔は・・・ありますよ!締め切りに追われる度にマンガ家にしときゃよかった、普通に就職しときゃよかったって(笑)。作家って一人でする仕事でこれをやれば1日が終わるということがない。何もしなきゃそれで一日が終わっちゃう。社会勉強のため昼間バイトでもしたら?とよく言われますが、そんな時間はありません。まぁ、ダラダラした人が書いててもいいだろうって(笑) 
 今、若い人には、勉強してるけど何をしたらいいかわからないという人がほとんどなんじゃないかと思う。何をしたらいいのかわからないことは問題じゃないのに、やたらと「自分は○○のためにに生きている!」というものを求めすぎるんじゃないでしょうか。「大義名分」を欲しがりすぎるというか。

■ 豊島ミホの野望 ―小説を書いていく上で何かテーマ等はありますか?

 ないです。書く内容が偏らないようにしています。

―好きな作家は?

 書いているのとあまり関係ないじゃん、と言われるでしょうが江戸川乱歩を読んでます。現代作家では綿矢りささんの大ファンです。彼女は同じ大学で、学年では私のひとつ下にあたりますが。

 

―ペンネームの由来は?

 豊島区に住んでいたことがありまして。「ミホ」は幼馴染みに「ミホ」ちゃんがいて。中学の時はそのミホちゃんが私に作家になれと言ってくれてました。

―今後やりたいテーマ等ありますか?

 テーマというのははあまりないけど、野望があるんです。文芸誌をつくろうと思っている。文芸誌って読者層が今はすごく限られているでしょ?お父さんより上の世代の人が読んでて、時代小説特集!みたいな。一応若者向けもあるがいかにもブンガクブンガクしい。もうちょっと若者の身近にあう文芸が欲しいとずっと思ってて。いろいろこういう動きは始まりかけているんですが、時代に媚びすぎている感があるんです。編集者側も読者層を狙って「こんなんが好きなんだろう?お前らは~!」みたいな形で本を出す傾向が強い。そういうのではなく若者が欲するものを作りたいんです。

―秋田にずっといたら小説は書けた?

 無理かな。小説の内容にはあまり影響しなかったとは思うけど。一般にこの業界は、編集さんが声をかけやすいところに仕事を頼むんです。だから、秋田は距離的に遠いんです。前は早稲田にいたので声がかかると「ハイ、行きまーす!」と言って自転車でシャーっと行ってた訳ですよ。

■ 若い人に対して、自分の過去を顧みて一言


 もっと皆に話かければよかったー。
 空気を気にばっかりして、私の話すことは邪魔なんだろうなと思って誰にも話し掛けようとしなかった。
 例えばこんなことがありました。HRが終わって掃除の時、結構サボって帰っちゃう人がいたんです。先生も注意しなかったみたいだけど、それでも私は真面目に行くんですが、人が来ない。でもう一人くらい男子が来るんです。「帰ったやつはムカツクよな。」とかそこで話し掛ければいいのに、ただ黙々と掃除して。コミュニケーション取れて何かが生まれたかもしれないのに・・・。掃除といえば、私が教室に戻った時、友達が一人で教室の掃除をやっているという時もありました。

―先生達はこのことを知っていて、もうどうにも出来ないという状態なんですかね?

 先生方の中にも、全く見抜けていない方もいらっしゃったかもしれない。まさかそんなヤツはいないだろうという感じでしょう。でも、教室ではニコニコしているのに教師の目の届かない場所に出るとクルッと変わる生徒がとても多い。モラルの問題で言えば、バスで並んでいた時に、2番目に待っていたんですが、気が付いたら前に30人も入り込んでいたということがありまして・・・。

―こういう事はいろいろなところで公言していく必要があるかもしれませんね。OBとしては。

 あの学校からはこれから社会を動かす立場になる人も沢山でるでしょうからね・・・。でもあまり書いたら、私もっと嫌われちゃうんじゃない?(笑)


※この他「若い男子にはあまり魅力を感じない」などのプライベートトークも炸裂したのですが、ここでは割愛。豊島ミホが気になった方はぜひとも彼女の本を買ってみてはいかがでしょう?新進気鋭の作家、齢を経るごとに変わっていくであろう観察眼も大いに期待できそうです。

2005年9月 HP委員(佐々木、金浜、小原、松塚)がお話を伺いました。