第8回 柿﨑征英さんに聞く

<仙台空港ビル株式会社 元代表取締役>

 今、セイロガンとカタカナで表現されている胃腸薬はその前は正露丸であり、発生時は「征露丸」であったという話はあんまり知られていない。つまり、日露戦争の時に日本兵が持参する整腸薬で、ロシア(露西亜)を征服するという意味合いを含んだ商品名だった。この征服という意味と英雄を意味する名前を戴いたこの先輩は、その名に相応しい激動の人生を歩んだ。

 昭和18年生まれには少なくても見えない。言葉のメリハリ、主張の明確さ、スーツの着こなしまで含めて決して県庁職員という風情ではない。どこかしら、民間の取締役といった垢抜けた、しかも粋な風情のある先輩だった。激動とは、生後一年一寸から逃避行を強いられ、運の強さで生還したこの人には「不可欠な要素」なのかも知れない。終戦の2年前に生まれながら、その生い立ちは十分に戦中派のそれだった。

  このような先輩には是非、健康で長生きしてもらい、後輩たちに苦言を呈して頂きたいものだと心から思った。

1.「生い立ち」

編:
先ずは定番ながら、柿崎さんの生い立ちについてお聞かせいただけますでしょうか?

柿﨑征英:生まれはソ満国境近くの虎林県です。父が国境警察のトップをやっていましたので満州で生まれたんですよ。

 

 

編:お父さんはどちらの出身ですか?
柿:増田町(現・横手市)の本町ですね。母は横手市。

編:増田町から満州に渡ったんですね。
柿:資料によりますと昭和18年5月27日になっていますが、この日は海軍記念日ですよね。

 

編:実は私(インタビュアー:栗谷秀美)も昭和26年ですが、その日に生まれたものですから。私の知っているこの誕生日の方は大正5年の中曽根康弘氏と同窓では昭和15年の佐藤浩二氏(55期)の二人ですから、先輩で3人目です(笑)。当時はそれだけで英雄ですね。
柿:そうですね。父が国境警察のトップをやっていたことで、戦争の先行が他の人よりは早く判った。終戦の2年位前から。そこで、母が祖母(母方)に手紙を書いて、当時60歳を過ぎていた祖母が横手から単身、満州にきて私の母と一緒に息子二人を連れて帰国を急いだんです。一種の逃避行が始まったのは終戦の一年以上前だと言うのです。帰国した時は終戦後だったというのですから。

編:相当のお金を持っていたということですよね。そうでなければ、当時のその逃避行は不可能ということですから。
柿:そうですね。それと母親が満州国の国立病院の婦長をしておりました。そこで途中で、日本の敗戦後は中華民国の病院に勤務したりしながらの帰国になったと言うことなんです。

編:冒頭から凄い話になりました(笑)。

柿:話によりますと、当時、周囲には多数の子どもがいたらしいのですが、生きて帰って来れた子どもは殆どいなかったらしいですね。亡くなったか、或いは中国人の家族に預けて帰ったということんです。そういう人たちが「中国残留孤児」になったということですね。弟も途中で亡くなってしまいました。

編:まったく記憶はないですか?

柿:ありませんね。ただ、ずいぶんと大きくなるまで「花火」なんかが怖がっていたと言いますね。

編:お父さんはどうなさったんですか?

柿:そのままですね。帰国しませんでした。戦士扱いですね。同じ仕事をしていた人に聞いたことがありましたが、その人たちは歩いて帰ってきたというのです。家の父は車で帰ってきたというのだけは聞いてるんです。襲撃されたのではなかったかという話でした。

2.「少年時代」

編:さて、無事帰国なさって、小、中、高校辺りのお話を聞かせてください。

柿:お話ししたように母が看護婦と高校の助産婦の免許を持っていましたから、助産婦をし、その後ずーと高校の養護教諭をやっておりました。その意味では生活はなんとか出来たと思います。南小学校、一中と通いました。また、その当時は警察の運営している「柔道教室」に通っておりました。小学校時代から何となく「美入野高校」というのに憧れましてね。中学からは男子の4分の1位は入学したと思います。相当ガッカリしたことを覚えております。


編:城南高校が「横手高校」名乗りそうな機運になり、そこで慌てて「美入野」が横手高校を名乗ったという話だそうです(笑)。さて、高校ではクラブはやられてたんですか?
柿:一年生は何もやっておりませんね。入学して間もなく横手高校から市内に下る坂道でスピードの出し過ぎで電柱に激突しましてね。自爆事故。そのまま頭蓋骨骨折脳内出血で意識不明に陥りました。一ヶ月半程入院しました。一昼夜意識不明だったというのですから、母は完全に諦めたと言っていましたね。職業柄(笑)。この時で2回目の「死にかけ」なんですよ。その時で元気になって思い立ったんだと思います。

 二年生からは弓道部に入部しました。入部した次の年からキャプテンをさせられました。センスがあったかどうかは判りませんけど。高校には弓道専門の顧問というのはいませんでした。中学校の先生だったと思いますけれど二階堂先生(二階堂行一氏・27期、大雄中学校長を最後に退職)という人が時々来て教えてくれていました。城南高校には福田先生(福田覚栄氏・32期)が居て時々、一緒に教えてもらったことを覚えております。

 昭和36年の秋田国体を控えておりましてね、気運が盛り上がっておりました。私もキャプテンとして「朝練」を企図しましてね。毎朝やりましたよ。そうしましたら、いきなり強くなりましたね。先生方が驚いたのを覚えています。それでも当時は秋田高校が一番強く、八射中一、二射負けていましたね。私は個人的には国体の強化選手として選ばれまして強化合宿に参加しました。

 小さなことですが、この時に城南高校の生徒も合宿に参加することになっていました。私の高校では何故だか知りませんが定期考査が免除になったんですよ(笑)。その時城南高校は免除になりませんでした。私のその話を聞いて彼女が泣いたのを妙にはっきりと覚えております。城南高校とはよく交流試合をやりましたね。そういう意味では楽しい高校時代でした。

編:弓道という種目は男女差のあまり出ない競技なんですか?

柿:珍しい位男女差のない競技だと思います。そういう意味でも城南高校とはいい勝負だったんです(笑)。

3.大学生活


編:さて、その後大学生活で上京ということになりますね。
柿:学校名は申しませんが、第一志望は落ちましてね(笑)。当時は浪人なんて出来る雰囲気も経済力もありませんでしたから、そのまま入学いたしました。下宿は世田谷の秋田寮に入りました。横手高校出身者は私だけでしたね。入寮しましたら、いきなりストームを掛けられたり、楽しい思い出が一杯ありますよ。あそこでの仲間とは今でも付き合っています。そうそう、二年生になりまして一寸アルバイトをやりまして、当時で10万円というお金を貯めたんですよ。


編:えっ!10万円と言いますと現在の150万円位になりますよね。
柿:その位ですかね。これを運用しましてね。高利貸しですよ。月に一万ずつ利子が入るんですよ。月に一割が利子ですから(笑)。学生に貸したりしたんでは、元手が返って来ませんから、銀座にお客さんがいたんですよ。私の仕送りは当時月一万円でした。寮費が賄い付きで8,000円位でしたよ。その当時その他に1万円でしたから優雅でした。でも、優雅ではあったんですが、栄養失調になりましてね。母がびっくりして上京してきましたよ。食べれないというんではなかったんですが、同じものばかり食べていたから栄養が偏ったんですね(笑)。


編:高利貸しの方は高度成長の時代ですから、十一(トイチ)なんて言って十日で一割の利子なんていうのはそう珍しくなかったんですから、良心的な方でしたからね。また、どうしてそのようなノウハウを身につけたんですか?
柿:それが判らないんです。世長けていたんですかね。


編:そういえば、全く訛りというのがないですね。誰でも少しはあるものですけれども、綺麗な東京弁という気がします(笑)。
柿:それも理由がわかりません。でも、これは昔からそうだったように思います。横手に居た時から、東京に遊びに来ると東京弁で話していたような気がするのです。よく言われますけれども、言葉で苦労した記憶はありませんね。理由は自分でも判りません。


編:横手に16年、東京に4年、そして仙台に46年というのは言語的環境がいいとはとても言い切れませんがね(笑)。ところで、その話が出たところで、そろそろお仕事の話を聞かせてください。


4.宮城県庁初期


柿:就職活動は結構真面目にやりましたね。先ず、静岡県庁、宮城県庁と就職が決まっていまして、秋田県教員も合格しておりまして、女子高の先生になることも決まってました(笑)。

編:花の女子高を蹴って、どうして宮城県庁だったんでしょうか。当時は就職は楽だったんですか?
柿:いえいえ、民間は大変だったんですよ。つまり、東京オリンピックが終わって、一時的に景気の後退した時期でしたからね。
 また、直後には所得倍増計画の後期に入って良くなるんですが、我々の就職時はそうでもないんです。だから、地方公務員という選択だったかもしれません。ただ、本人は他の目標も少しありまして、ほんの腰掛けのつもりで、就職をしたんですよ。採用決定の一番早いのが宮城県庁だったというのもありましたが。

編:意外と義理堅い(笑)。他の目標と言いますと、法学部ですからもしかして司法試験を受けてみようかということですか?
柿:ええ、そういうことにしておきますか(笑)。でも、入庁して3年目に30個も印鑑のつかれた稟議書類を私の一言で覆ったことがありました(笑)。私は三年生だったわけですから。そんなこともあって役所生活が面白くなったんです。身分が保障されていながらトラバーユ出来るご機嫌な職場であると思い立ったんですね。何しろ私の場合は42年間で昇給昇格を含めて33枚もの辞令を貰いましたから。
 県庁という職場は司法、防衛、外交以外の仕事は何でも出来るという場所なんです。仕事に生甲斐を見出すようにすればいいんです。楽しくない時も勿論ある訳ですけれども、そのことで目標が実現できた時の喜びは倍加することになりますよ。


編:経歴の中に教育長というのがありますが、教師か元教師がなる職業ではないんですか?
柿:そういう場合もありますが、そうでない場合もあります。宮城県では同じくらいだったと思います。平成11年の教育長の7、8年前に教育次長という立場で一度教育委員会に関与致しました。問題は山積していますね。
 
 教育委員会には皆さんの批判する閉鎖的な現状があります。教員の皆さんは、一応学校という組織に属しているものの、個々の教育現場では、独任性向が強く、外との関わりの少ない職場環境であることも一つの要因かもしれません。そんな状況の中で取り組んだのが、人事異動による職場の活性化を通した教育力の向上でした。何しろ、当時10年以上は勿論、20年以上同じ職場におられる先生方が大勢いました。先生方は日々向上心を持って努力されてきたとは思いますが、人間というのは弱いものです。環境の変化による刺激は必要だと思っておりました。
 
 次に取り組んだのが男女共学問題です。歴史的には宮城県は共学が遅れていました。戦後、GHQが基本的には男女共学がよろしいということで全国的に共学を勧めました。ところが、ある程度地方の裁断に任せた部分もあったのです。そこで、宮城県は男女共学を特に高校の段階で拒否して全国的には宮城県は圧倒的に男子高、女子高が多かった。


編:古い人に言わせますと、男女共学は男の威厳、女の神秘をなくしてしまったなんていうことを言いますよね。
柿:それは一貫して男女別学の場合ですね、当てはまるのは。小中は男女共学で大学に行けば、また共学になる場合が多いわけです。女子大学はありますが、男子大学は存在しません。そうしますと、青春の一番大事な時にポッカリと別学になってしまうんです。現在の日本の一般社会で男女別の社会システムは基本的にはない訳です。それは教育上いいとはとても思えません。
 この改革は県全体の社会問題化、政治問題化して長い時間がかかり、多くの人たちが苦労されました。何しろ100年の歴史を変える訳ですから全部が共学になったのは、今年の4月からです(笑)。これは大きかった。それと同時に彼らと夢とプライドを持たせるために「宮城教育理念」を作りました。
 山あり、谷ありでしたが仕事は楽しかったですね。給料のことを言わなければ(笑)。

編:順風満帆だったということですか。
柿:外から見るとそう見えると思いますが、そんな意識はありませんでした。その時、その時一生懸命ということですね。

5.宮城県庁後期


柿:ただ、33回の辞令の内、辞令を受ける前の内示で駄々をこねたことが2回ありました。
 1回目は知事の秘書係長の辞令の時。まあ、素直に言うことを聞かないタイプの人間だったということでしょうね。こんなのは県の仕事じゃないと噛み付いた訳です(笑)。当時の上司は慌てましてね。履歴書から写真から全部行き渡って知事の了解を得た後のことですから。今から数えますと4人前の知事で山本壮一郎さんの時代です。なんとか説諭されて請けました。この知事からは沢山のことを教わりました。問題に遭遇したら「原理原則」に立ち返れとか、元々のありようを考えるとかですかね。その後の私の判断基準になりました。


編:あと1回はどんなときですか?
柿:これも政治がらみで副知事の人事の時です(笑)。この前の浅野さんの時ですね。基本的に政治の現場にいるのは嫌いなのかもしれません。
 この時にやった仕事の内、一番印象に残ったのが「楽天」の誘致ですね。当時宮城では全部ライブドアが正義の味方で楽天が敵役みたいなときでしたから。勿論、そのどちらかを決定したのは日本野球機構の方ですが、楽天に決定してからの交渉の殆どに私が関わりました。仙台のあのおんぼろ球場を先ず、2億円で楽天に改修してもらいまして、宮城県に寄付して頂き、翌日から有償で借りてもらいました(笑)。楽天はその後も60億円かけてあちこちを直して立派な球場にしました。
 
 交渉の時に私はいの一番に考えるのは「ウインーウイン(双方にメリットがあり双方が勝ったという印象の残る結果)」の関係ですよ。そして、宮城県民だけではなく東北の人たちが生で野球が楽しめるという素晴らしい環境が整いました。球場は楽天が占有するけれども、アマチュアが使用するのにも十分廉価に貸すことも決定させました。楽天の社員というのは当時(7年前)社員の平均年齢が30歳前後だと思います。ですから、発想が新しいし、柔和なんです。本来、球場には一時間か一時間半前に来ればいいところなんですが、仙台球場には三時間以上前に球場にお客さんが集まってきても楽しめるように出来ています。公園代わりにくつろぐことも出来ますし、山形のさくらんぼや秋田の食料品など模擬店なども沢山あります。また、秋田県で楽天の試合をやる企画なども実現させました。
 その意味で、ごねてなりました副知事の役職でしたが、楽しみましたし、遣り甲斐がありました(笑)。あと、ネーミングライツと申しまして、名前を使ったら某かの金員を出して頂くということもやりましたね。楽天に誘致し、楽天がフルキャストには2億円出させましたし、その内5千万円は県に入ったはずです。

編:浅野さんにはやはり影響を受けられましたか?
柿:そうですね。年齢が近いこともあって、影響というのではないかもしれませんが、あの方はぶれませんでしたね。官々接待などの浪費に関しては徹底的に改善を要求していった。そして、あの問題の噴出です。当時、秋田県の県関係の友達とあうときも「そっち」にも必ず同じ問題があるから、気をつけろと忠告しておりました。そしたら、仙台の比ではない問題が直後に持ち上がりました。その意味で浅野さんは先見の明があったと思っています。

編:さて、直前までやられていた仙台空港の社長の話を少しお聞かせください。
柿:第一番に手掛けたのが社員の意識改革ですね。何しろ第三セクターで育った社員ですので役人みたいなものです。お客様あっての商売である。利潤を考えて仕事をすることを口を酸っぱくして話すのですが、なかなか浸透しません。勿論、安全安心が前提にあることは言うまでもありませんが。
 
 その次に空港の天井をぶち抜くことでしたかね(笑)。屋上に展望台を作る企画。これが実現するまでに3年かかりました。カレーをおいしくするとか、空弁の充実など、地味ですがお客様のことを考えると当然なサービスの実現に腐心しました。なんかあっという間に過ぎた感じがしています。

6.同窓会との関わり及び若者へのメッセージ」

編:同窓会への出席は今までいかがでしたか?
柿:それが、私としてはあまり熱心ではなかった。もし、深く関わって利用される立場になることを恐れていたのかもしれません。ですから、今回、(仙台美入野同窓会の)会長職を受けたのもその罪滅ぼしという面がなかったとは言えなかったと思っています。そうして頂くと、私がここで時間を使った甲斐があったというものです(笑)。

編:若い人へのメッセージと言うとどんな言葉があるでしょう?
柿:私は「一所懸命」という言葉が好きです。
 鎌倉武士が自分の土地を守って命を掛けたことから始まった言葉ですが、その後に変化した一生懸命より「ヒトットコロ」の一所の方が好きですね。自分に与えられたポストを一所懸命にやる。こなす。次のことは考えない。それが大事だと思いますね。それと天台宗の最澄が言った「忘己利他の心」ですね。己を忘れ、他に利す行為こそ幸福の極みであるという考えです。若い時は考えにくいですよ。なかなか。でもこの種の言葉をいつも念頭に置くように心がけて来ました。そうすれば、大きくは曲がらない。そして、年齢が増すにつれ、この種の言葉の重みが判ってきます。ですから、少し、難しい。現実的ではない。と思われても若い人には「しつこく」唱えますね。そうすれば、いつかは判ってくれる時が来るのではないかと思います。

編:最後にこれからはどういう風に時間をお使いになるんですか?
柿:それが一番問題ですよ。何にも趣味がない。ゴルフをやるという程度。楽器なんかどうかなと思っているんですが、何がいいのかな。まあ、暫くゆっくり考えてみることにしてみます(笑)。  

広報委員 栗谷(66期)がお話を伺いました。